下の娘が高校生の頃だったと思う。
「パパは死んだら私たちとは一緒の所には居られないんだよね」
と寂しそうに私に尋ねた。
「心配すな、安心すな、パパは天国泥棒するぞ!」
と言ったら、彼女の顔が少し軽蔑の混じった、だが少しホッとした表情に変わったのを覚えている。
「天国泥棒」とは、未入信者が臨終の床で洗礼を受けることで、カトリックの信者たちは揶揄してこう呼ぶ。信者の人たちは、ちょっとした嘘をつく時や、配偶者以外の若い対象に胸を躍らせる時、あるいは家族計画をする時など神様と相対して胸に痛みを感じているのであろう。ところが、およそ良心の呵責とか後悔の念というものにまったく関係なく今まで自由気ままに生きてきたバチ当り者が、あの世に旅立つ間際に天国への切符を、いとも容易く手に入れる。そんなことを、冷ややかに見ているからであろう。
私の家族は、私を除いて全員がカトリックの洗礼を受けている。私の妻はカトリック信者で、異教徒(私の家は慣習的にではあるが臨済宗の仏教徒だ)や未信者との結婚を望む時は、その配偶者はカトリック結婚講座を受講しなければ婚姻は許可されない。そのうえ講座の最終日に、自身ができるだけ早い時期に受洗すること、また生まれてくる子供たちには洗礼を受けさせることの二つを約束させられる。教会の力が弱い日本では、この約束を反古にしても実生活にはなんら影響はない。ただ私はこの約束の前者は守らなかったものの、後者だけは律儀に守ってきたということだ。
このことが子供たちにとって良かったのかどうか、私には解らない。特に末の息子は教会が大嫌いで、日曜日のミサに行くときなどいつも遊びに出かけ行方不明になっていた。遠藤周作氏の云う「身の丈に合わない服」を無理やり着せられて、周りとの違和感を覚えていたのだろう。ただ不思議なのは堅信の儀式を嫌がらずに受けたことだ。カトリック教会では幼児洗礼を受けた子供は小学校の高学年になると、堅信という儀式を受けることになっている。堅信とは自身の意思でイエスの教えを守り、より強く信仰を固めるという儀式で、彼は彼なりに「身の丈に会わない服」に愛着を感じていたのかもしれない。
ともあれ、私はこれまで平凡に生きてきた。良いことは何もしなかったが大それた悪事もできなかった。そんな男に残された最後のひそやかな楽しみは、天国を盗むという大罪を犯すことだ。神は出来の悪い子供ほどより愛しむというから、その前にもう少し何人かの女をを泣かせてみたい・・・などと考えている私は本当にバチ当り者だ。
(Photo:ミッドタウンガーデンに流れる地上の銀河、曲名:Have Yourself A Littl Merry Christmas。この稿おにいちゃん書く、謝謝)